「中国の根柢はすべて道教にある」
漢方に関して、現代では科学的な有効性の解明も進んでおり、ある種の病態に関しては西洋薬よりも有用性が高いことも知られ、半世紀前と違って、多くの方が漢方を現代における医学・薬学の一部として認識していることと思います。しかしながら、科学的な解明が進むほど、漢方というか、日本の漢方のベースである中国の伝統医学に関して、本来は中国哲学の一部であるという認識が失われている気がします。もともと中国の伝統医学の根幹をなす部分は中国哲学の中でも易経や老子・荘子に始まる道家思想が大きく影響しており、そういった思想、哲学の中の医療に関する部分が伝統医学と呼ばれているわけですが、現在では哲学的な背景が顧みられることが殆どなくなってきていると感じます。
かつて魯迅は「中国の根柢はすべて道教にある」と記していますが、特に不老不死をめざした道教的な考え方は医療の分野に大きく影響しています。実際に西暦500年頃に神農本草経を整理して『神農本草経集注』を著した陶弘景は道教の茅山派の開祖としても知られていますし、唐代に『備急千金要方』を著し、医王とも称される孫思邈も道士であり、道教信者からは仙人としてあがめられ薬上真人として祀られています。因みに、日本にも道教は遣唐使などを通じて飛鳥時代には流入していたとされ、身近なもので道教由来のものとしては神社の“おみくじ”や厄除けの“おふだ”などもそうですが、“天皇”という言葉も道教の神学用語とされています。
“道”とは
さて、東洋思想に於ける“道”ですが、神道や柔道、花道など日本でもよく目にするものの、あらためて“道”とは何かと問われたら答えられる人は少ないと思います。老子の『道徳経』における“道”は「天地万物がそれぞれ存在することに対してその根源となる究極的実在であり、現実的世界を超越して存在し、それらを統御する普遍的法則(※1)」と解説されていますが、東京大学東洋文化研究所の安富歩教授によれば、“道”とは簡単に言うと“本来そうあるべきもの”と解釈できるとのことです。たしかに、日本語でも“道を外れる”といった言い回しがありますが、言葉にもできないし、目にも見えないものの、この世には“本来そうあるべきもの”というものがあって、それにできるだけ近づいていこうとすべきものが“道”だといえます。同教授によれば、西洋のキリスト教的な発想では、人生は選択の連続であり、その選択が正しいかどうかは、“最後の審判”で神様が判定することになっていますが、東洋思想では人生は“道”という絶対的に正しいものの存在を前提にしており、その“道”に沿って生きるべきと考えるといった違いがあるとのことです。余談ながら、この話を聞いて、アメリカではホットドッグひとつ注文するにもつけ合わせからソースなど細かく“選択”することが要求されるのに対して、東洋では“おまかせ”が基本で、無意識のうちに本来そうあるべきものの存在を前提にしているような気がして、妙に納得させられました。
最後に、黄帝内経・素問(金匱真言論篇)に『其の人にあらざれば教ゆることなかれ。其の眞にあらざれば授くること勿れ。是を道を得たりと謂う。』(※2)と記されていますが、医療ももちろん“道”であり、それを学ぶのにはそれなりの覚悟がいることがわかります(“学ぶ”という概念自体が“道”に近づこうとして努力することです)。また、“道”である以上、言葉で表現することも難しく、終わりがなく、一生かけても総てを会得することはできないものともいえます。論語に“知之為知之、不知為不知、是知也(これを知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなす、これ知るなり)”という有名な言葉がありますが、知れば知るほど何を知らないのかを知ることになって、果てしなく続くものが“道”だと思います。
(参考文献:※1:「はじめて学ぶ中国思想」渡邉義浩 他編、※2:鍼灸医学大系①黄帝内経素問 序説・本編第一~第四、柴崎保三著)