木の芽時
春は五行説では自律神経と関係の深い肝の季節であり、日本の場合は特にこの時期に学生も社会人も新しい年度がスタートして環境が変化することが多く、新しい環境にうまく適応できないことから心を病むことも多くなります。内閣府の統計をみても、三月から五月は自殺者数が多い傾向が見られ、この時期を表す“木の芽時(このめどき)”という表現はそのまま暗に自律神経の乱れを指す言葉としても使われています。また、この時期に適応障害や気分障害と呼ばれるような症状を呈することを日本独特の表現として五月病ともいいます。
五月病は漢方的にみた場合、気の巡りが悪くなった状態ですが、もともと気のエネルギーが弱い人はどちらかというと不安が強くなり、気のパワーがそこそこある人はイライラや焦りが主体になる傾向があります。尤も、不安だからイライラするとか、イライラすることが多くなって漠然とした不安感に駆られるなど、実際は不安が主なのかイライラが主なのか明確に判断することは難しいケースもあります。
こういった症状に対して速効性のある高貴薬としては、不安に対しては麝香、何かに追い立てられるような感じでイライラしたり焦りを感じているような状態には羚羊角や牛黄製剤が挙げられます。ただし、繰り返しになりますが、不安なのか焦りが主体なのかは本人でもわからないことが多く、以前からよく知っている方ならまだしも初めて相談に来られた方などではこちらとしても判別しにくいことがままあります。もちろん、時間が許せば主訴以外のからだの状態も参考にしますが、こういった相談では、本人ではなく家族の方が心配して相談に来られるケースも多く、判断に迷うことが多いものです。このようなときには“以臓補臓”の考え方をもとにした麝香と羚羊角の話をして、使い分けの参考にさせていただくことがあります。
以臓補臓
“以臓補臓”というのは、薬膳などの食養生理論の考え方で、簡単にいうと肝臓が悪いときには豚や牛などの肝臓を食べると良いといったものですが、このような考え方にそって麝香や羚羊角の使い分けを考えるとうまくいくことが多いように思います。
麝香はオスのジャコウジカの香嚢から得られる分泌物ですが、ジャコウジカは標高二千mほどの山地の森林地帯に棲息し、群れを作らず単独で行動し基本的に臆病な性格で日中はあまり活動しないそうです。中国では人工飼育が試みられていますが、鹿などと違って極めてストレスに弱いことから規模を大きくするのが難しいようです。このような性格のジャコウジカが分泌する麝香には優れた開竅作用~気の巡りを良くする作用があり、不安で不安で身動きがとれないような精神状態を改善する効能があります。ついでにいうと、麝香はジャコウジカの腹部にありますが、麝香の薬効としておなかを温めて胃腸機能を良くする作用もあります。
一方、羚羊角の原動物であるサイガカモシカはカザフスタンなど中央アジアの草原地帯に棲息し、エサとなる植物を求めて大きな群れで移動しています。旧ソ連時代は厳しく管理されていましたが、旧ソ連の崩壊とともに乱獲され個体数が減少しています。当時は、政治体制の混乱期で、主に食肉として利用するために逃げまどうサイガカモシカの群れに向かってヘリコプターから銃を乱射するなどしていたという話を聞いたことがあります。サイガカモシカの頭角である羚羊角の薬効の一つである肝の高ぶりを鎮める安魂作用とは、例えていうならサイガカモシカが銃で追われているときの焦りに焦って頭がいっぱいいっぱいになっているような精神状態を鎮めるような作用であり、いささか不謹慎かも知れませんが、このあたりをイメージすると自律神経の乱れに対する羚羊角の使い方の参考になるような気がします。