悲しいから泣くのか、泣くから悲しいのか?
秋の心と書くと“愁”という字になります。五行説でも五志七情に関して秋は“悲”や“憂”が配当されています。ところで、一般的には悲しいから泣くと考えられていますが、心理学の世界では、悲しいと理解する前にからだが悲しみに反応して涙がでるのが先で、涙を流している状況を悲しいと感じるとするジェームス=ランゲ説というのが十九世紀に唱えられ、論争を呼びました。この説では外部刺激を受けて、涙を流したり心拍数が変化したりする生理的な反応をした後にその状況を理解して感情が生起すると考えます。その後、二十世紀の後半には、心拍数の増加などの生理的な変化が同じでも、状況によって同じ感情を抱くとは限らないことから、外部刺激に対して生じた生理的な反応に対して、それがどのような感情によるものなのかを脳が判断(原因帰属)して感情が生まれるとする説が唱えられています(シャクターの情動二要因理論)。
いずれにせよ、心理学では感情が生起する前に直感的な反応が生じると考えられており、漢方の世界で考えてみると、この直感的な情動を支配するのは“魄”です。また、“魄”は秋と関係の深い肺に蔵されているとされており、そういった意味でも秋は感傷的になりやすいのかもしれません。
笑いは憂いを吹き飛ばす
さて、漢方理論では憂いや悲しみは“気が消える”とされ、気の発生源の一つでもある肺の機能も低下して声に力がなくなるほか、無気力になっていくとされています。このような場合、処方としては肺気を補う黄耆製剤などが用いられますが、落ち込みがひどいときや急性期には気つけ薬の出番になります。ただし、古来このような精神的な疾患に関しては薬だけではなく今風に言えばカウンセリング療方を併用すべきとされています。
漢方の世界でのカウンセリング療方に関しては、金元四大家の一人である張子和が得意としていた五志相勝療方と呼ばれるものが有名です。これは五行の相克関係を応用したもので、憂いや悲しみ(金)に対して尅する関係にある(火)に配当される“喜”を利用して、喜ばしてあげるとよいとされています。ただし、身内や親しい友人ならいざ知らず第三者の立場で人を喜ばすというのも限界があります。このような場合には、本人が日常生活の中で積極的に笑うことを心がけることが大きな効果を発揮します。
現代医学でも笑いの効用に関しては多くの報告があり、例えばリウマチ患者さんに落語を鑑賞してもらったところ気分や痛みが改善したほか、ストレスホルモンであるコルチゾールの値が落語を鑑賞した後で大きく下がったほか、炎症を悪化させるインターロイキン-6も同様に低下したそうです。その後も実験は重ねられ、平成十五年の実験では炎症を抑えるインターロイキン-1レセプター・アンタゴニストという物質が笑いによって増加することも確かめられています。他にも、大阪ミナミの演芸場でガンや心臓病の患者十九人に三時間ほど漫才などを鑑賞して大笑いしてもらったところ、その前後でナチュラルキラー細胞の値が低かった人全員が正常範囲まで増加したほか、高すぎた人の多くも正常値に近い数字になったそうです。更に注目すべきは、その後の実験で、おもしろいことがなくても作り笑いをしてほほ笑むだけでも同様の効果が見られたとのことです。
二十世紀初頭のフランスの哲学者であるアランは「幸福論」の中で「幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのだ」という言葉を残していますが、病気であることで憂いを感じていても笑顔を心がけるだけで効果があるわけですから蓋し名言といえます。