生き残るために必要なこと

「社会的共通資本」という考え方

 昨今、国の財政問題に関して増え続ける医療費の問題が大きくクローズアップされるようになり、ジェネリック医薬品や負担割合の見直しなどの論議がかまびすしくなってきています。昨年のOTC医薬品のネット販売の問題あたりから、医療という命に直接関わる問題が経済という枠内で当たり前のように議論されていることに違和感をおぼえます。確かに“ない袖は振れない”のはわかりますが、日本の医療をどのようなかたちにするのが望ましいのかといった根本的な議論抜きに、成長戦略や財政制度等審議会などの場でとにかく経済効率を最優先にした議論に終始しています。

 実際問題、薬を売る側も“街のおくすりやさん”という存在がどんどん淘汰されていき、OTC医薬品は本来の“オーバーザカウンター”どころか、ドラッグストアであれネットであれ普通の商品と同じように消費者が選んで購入するのが当たり前になってしまった現状からすると、医薬品もただの“モノ”になってしまった感があります。また、最近、某医薬品問屋さんが効率の悪い個人のお店との取引から“撤退する”方針を打ち出すところまできているのも事実です。

 たしかに我々も昔から“半医半商”といわれるように商売という側面をぬぐえないのは事実ですが、医療の部分にまで何が何でも経済効率優先というのはいかがなものかと感じざるを得ません。

  昨年亡くなられた著名な経済学者で東京大学名誉教授でもあった宇沢弘文氏は、経済学の本来の目的は人々を幸せにすることであり、教育や医療、自然環境などを“社会的共通資本”として捉え、これらを利潤追求の対象としてはいけないという主張をされていましたが、正にその通りだと思います。今の日本の社会は利潤の追求や経済効率のみを最優先にする強欲資本主義とも揶揄される考え方が蔓延しているところに大きな問題があると思います。

 

料理屋さんに学ぶこと

 さて、現代の日本では全国的に商店街がシャッター街と化していくなか、かろうじて個人でも店舗を構えていられる業種としては医療関係か料理屋さんぐらいになってしまいました。この二つの業種に共通する事といえば、人間の生命に直結する業種であるということになりますが、それゆえに人の心にうったえるものが有るか無いかが生き残りの鍵を握っていると思います。

 札幌に本店がある“すし善”の大将(嶋宮勤社長)が、一昔前に日本政府から要請され、アメリカのワシントンで開催される桜祭りに多くのすし職人を引き連れていって鮨をふるまった時のこと、今ほどアメリカですしが広まっていなかったこともあってか、現地のニューヨークタイムズの記者から「あなたの握るお寿司と回転寿司とは何が違うのですか?」という質問をされたそうです。今なら、そのような質問をする記者もいないと思いますが、よくよく考えてみると、回転寿司の世界でもシャリを握る機械も進化していますし、ネタも高級なものを使って値段も高めというお店も出てきていますので、今、同じ質問をされたらどう答えるべきか迷う方も多いと思います。

 もちろん正解というのはないのかも知れませんが、このときの記者の質問に対する大将の放ったひとことが我々にも大いに参考になると思いますので紹介させていただきますと、「回転寿司のすしは誰が食べるかわからないけれど、ボクのすしは目の前にいるあなたのために握る」と答えられたそうです。

 もともと料理屋さんに関しては“馳走(ご馳走)”という言葉が示すとおり、客に対してかけずり回って食事を用意する気持ちというか“心”が大事とされていますが、我々も日頃から研鑽を積んで目の前にいる患者さんのために最適のお薬をお選びするという姿勢が伝わるかどうかが生き残りの鍵を握っているように思います。

関連記事

  1. 寅年に寄せて

  2. “脾”と“腎”の関係

  3. “中国国家級保密処方”~六神丸

  4. 冬は命門之火の燃料補給を

  5. 五月病の不安と焦り

  6. コロナ禍で覚える違和感